雑記
チェンマイに関すること以外にも、タイや他の国々のこと、想い出等々を思いつくままに綴っていきます。
外国人との初遭遇(2020年10月23日)
カテゴリー:生い立ち
時期:幼稚園〜
場所:日本
アメリカ人
幼稚園の頃、近所にアメリカ人の男の子が住んでいて、よく一緒に遊んでいました。私と同い年でアメリカンスクールに通っていました。初めて道で出会ったときには顔つきの変わった不思議な子だなとうい印象でした。普通に日本語を話すことができましたが、彼の家に遊びに行った時は衝撃を受けました。母親とは理解不能な言葉で話すし、外観は日本家屋なのにキッチンなどは別世界でした。そんな彼がアメリカに帰国することになり、私の母親がもう「会えなくなるね、遠くの国だから」と言ったのが淋しかったです。
台湾人
中3の時に台湾人の女の子が転校して来ました。普通に日本語を話していましたが、家では中国語だったそうです。別のクラスでしたが、明るくてとても可愛い子だったので学年中で評判になりました。彼女を口説いた男子は多かったようです。私は別の女の子に憧れていたのでそういうことはありませんでしたが。
韓国人
韓国人との初遭遇は18歳で1年間アメリカに滞在していた時です(小中で在日韓国人の同級生もいたはずですが、当時は本名を名乗っている子はなかったので不明です)。通っていた学校が韓国人の経営で、学生の中には韓国人も多くいました。同じクラスの韓国人の男性はとても面白い方でクラスのムードメーカーでした。日本人の学生たちからも慕われ、彼を射止めたのも日本人の女性でした。学食も韓国人のご夫婦が切り盛りされ、韓国料理と韓国風の和食の日替わりランチを出していたのですが、これが美味しくて大人気でした。産休に入る先生がぼやいたのは、学生たちに会えなくなるのが淋しいではなく、「ご夫婦の料理を食べられなくなるのが淋しい」だったほどです。それより何より重要なのは・・・事務室の韓国人のお姉さんでした。明るく、優しく、とても可愛い方で、最年少だった私を弟のようなものだからと他の学生たちより可愛がってくれていました。結婚相手は何人がいい?という話になった時は絶対韓国人がいい、アメリカ人はイカレているし、日本人と結婚するなんて言ったら親に殺されちゃうと笑っていました。日本統治下で生まれ育った世代だからだそうです。でもお姉さん、実は私はあなたに恋していたのですが?告る勇気がない純な私でした。22歳の先生に告って玉砕したのは誰だ!(笑)
タイ人
タイ人との初遭遇は16歳の時のエアーサイアムですが、実際に話をしたのはやはり18歳の時に通っていた学校です。韓国人経営でしたが、日本でいえば教頭に当たるような方が5歳でアメリカに移住してアメリカ育ちのタイ人でした。まだ32歳と若く、見た目は20代半ばくらいだったので赴任当時はスーツを来たキザな学生だと思われていました。お金がなくて学校でランチを食べられない時期もあり、そんな時に奥さんのサンドイッチは美味しいんだと言って渡してくださったり、昼飯をおごるから他校の視察について来て授業を受け、感想を報告するように、などと言ってくださったりしました。タイに興味を持ったのは彼のおかげです。
中東系
中東系の人との初遭遇もアメリカ時代でイラン人でした。当時はイラン人の学生も多く、クラスメートにもいました。クラスメートのイラン人は甘いマスクにおっとりとした性格で女性に人気がありましたが、やはり落としたのは日本人でした。彼のアパートでシシカバブを焼いてもらい、初めて食べました。お気に入りのお料理です。週末、東京の代々木公園に多くのイラン人が集まっていたころはよく行っていました。日本人は怖がって公園に入って来ないので日本人を見かけることはほとんどありませんでした。イラン弁当を買って食べていると、イラン人たちが寄って来て歓迎されました。「こっちのイラン料理も試してごらん」と分けてもらっていました。楽しかったのですが、イラン人に対するビザ免除が停止され、その楽しみを奪われました。日本人へのビザ免除も停止され、ビザのハードルも手数料も7万円と高くなり、憧れの国でしたが長いこと行くことができませんでした。現地の空港でビザを取得できるようになり、2015年にようやく行くことができました。お料理が美味しく、人も親切でとてもよかったです。
最近の雑記
2020年10月22日
特技
測量機器
測量士の資格は持っていませんが、トランジット(角度の測量機材)、レベル(高度の測量機材)、平板(精度が低いので当時でさえ使用することなど稀でした)などの設置・測量ができました。大学時代から就職までの間、仕事で平板以外は毎日のように使っていました。今では何の役にも立ちません。
えんぴ投げ
えんぴ(大きなスコップ)に乗せた土をそのままの形で崩さずにスポーンと遠くに投げることができました。これはなかなか習得が難しいのですが、体力の消耗を抑えることができます。これも今では何の役にも立ちません。
ブラインド・タッチ
キーボードを見ずに入力ができます。19歳で英文タイプライターの学校に通いました。がちゃん、がちゃんと打つ手動英文タイプライターでした。修了の目安が検定2級合格レベルでした。手動タイプライターで5分間英文の原稿を見ながら打ち、ミスなしの場合で1分間に200文字以上の入力が必要で、ミス1か所で10文字だったか20文字だったか引かれます。今のキーボードと違い力も必要でした。検定合格レベルで修了しましたが、検定は受験しませんでした。今のキーボードなら1分間に英文を250文字以上は打てると思います。その後1980年代半ばに日本語ワープロが出てすぐに購入しましたが、ローマ字入力の場合は英文タイプライターと同じキーボード排列だったので楽でした。PCの場合も同様なので楽でした。
2020年10月21日
仕事
初めてバイトをしたのは小6でした。隣町の大きな自転車屋さんに行った際に誘われ、時給100円でパンフレットを数枚づつホチキスで留めるという仕事でした。数週間、放課後に通っていました。
2度目は中3で、朝夕の新聞配達を始めました。アメリカに行く資金調達のためでした。高校入学直後に担任からバイトを辞めるように強要されたので、素直に高校を辞めました。その後は喫茶店のウェイターやリサイクルショップで冷蔵庫や洗濯機のさび落としの仕事なども掛け持ちしていました。
高校再入学後、高3から中学生相手に家庭教師を始め、大学時代は塾の夏期講習の講師もしました。教育出版社の編集部でもバイトをしましたが、一日中原稿を校正する仕事は性に合いませんでした。
大学1年次の春休みに遺跡でのバイトを始めてからは専攻学科(英米文学科)の授業にはほとんど出なくなり、他学科(考古学科)の講義・実習・ゼミにばかり出て、現場にも通っていました。卒業前にゼミの教授からは「止めておけ、就職した方がいい」と言われましたが、卒業後も2年間はフリーの調査員(現場監督のような仕事)をしていました。英文科卒の調査員???とよく言われました。天職だと思っていたのですが、持病の腰痛と膝痛が悪化し、転職することとなりました。今でも現場に復帰して喜んでいる夢を見ることがあります。
本来の学科絡みの仕事に就いたのは大学卒業の2年後でしたが、中学1年生で決めた進路で紆余曲折しながらもそこにたどり着きました。一次の筆記試験を通り、二次の個人面接(他にも集団面接と実技試験がありました)で、面接官が私の履歴書を見終わってから1〜2分ほど絶句してくれました。やっと出た言葉が「これではご両親は大変でしたね、早く安心させてあげないといけませんね。」でした。これで落としたら目覚めが悪いと思ったのか、うまうまと採用されました。家族や友人たちからは口々に「お前が?世も末だ」などと散々な言われ方をしました。若者相手の仕事で楽しかったのですが、同僚には苦労しました。