雑記
チェンマイに関すること以外にも、タイや他の国々のこと、想い出等々を思いつくままに綴っていきます。
大学(2020年10月12日)
カテゴリー:生い立ち
時期:大学
場所:日本
大学は私立のキリスト教系の英米文学科でした。1年次にキリスト教概論などというやっかいな必履修科目があり、「え?嫌だ!」と思いました。受験前の下調べが足りませんでした。その大学を選んだ理由は第2外国語に当時はまだわりと珍しかったスペイン語があったこと、外国人の教員が多かったこと、当時ファンだった芸能人が在学していたこと(笑)などです。
1年次はクラス単位の必履修科目が中心で、私はクラス内で女子から「ダメっ子グループ」と蔑まさていた男子グループに属していました。よくサボって麻雀などをしていました。おかげで仲間は単位を落としまくり、退学勧告を受けた者も何名かいました。要領はよかった私は単位を落としませんでしたが、「いつも俺たちと一緒に遊んでばかりいたくせに、ふざけんなよ!」と非難されました。
2年次以降は実質的に専攻が2つある状態でした。というか、むしろ他学科の方を専攻しているような状態でした。1年次の春休みに始めたバイトがきっかけで、本来の学科以外に考古学科の講義・ゼミ・実習を履修し、他学科の科目登録制限超過分も聴講の形で受講していました。考古学実習は2年次の週1回180分で、原則として他学科の学生は履修登録できないと明記されている授業でしたが、教授にお願いして例外として履修登録を認めていただきました。前期は測量、夏休みには現場で3週間の合宿、後期は土器・石器の実測図を描いていました。他学科の授業と現場ばかりの生活で本業の方はおろそかにしていました。要領よく卒業後は現場で他学科出身では珍しい調査員(現場監督のようなもの)となり、本来の学科絡みの仕事に就いたのは卒業してから2年後でした。その職業に就こうと決めたのは中学1年生だったので、紆余曲折をし長い道のりとなりました。
最近の雑記
2020年10月11日
高校
高校は2校通いました。
最初の高校
最初に入学したのは私立のいわゆる進学校でした。入学式の校長のあいさつで「本校では進学以外考えていません」の一言で「こりゃダメだ!」と思いました。中3で始めたバイトを辞めるように担任から強要されたこと、英語の教員とトラブルになったことなどが要因で、GW明けに高校の方を辞めました。他にも短期間で嫌な思いを散々させてくれた高校で、2校目の高校に入学するまで4年かかりました。
高校間の英語学校
18歳の時にロサンゼルスの公立高校の入学許可を取っていたのですが、高校嫌いが収まらず、1年間ロサンゼルスの英語学校に通っていました。韓国人経営の学校で、教頭はアメリカ育ちのタイ人でした。学生は日本人、韓国人、イラン人、メキシコ人、南米系などがいました。20代の学生が一番多く、次いで30代、私は最年少でした。学食の日替わりランチは韓国料理か韓国風和食でこれにハマりました。本業はまだ2部の大学生だった先生と、事務の優しくて可愛い韓国人のお姉さんに憧れていました。この先生との出会いが高校再入学と大学卒業後の就職先に結び付きました。
2校目の高校
2校目は公立のごく普通の高校でした。制服もなく自由な雰囲気で、進学重視ではなく、ぬるま湯のなかでぬくぬくできるようなよい学校でした。ブランクが4年と長かったので最初の1年間は続くかどうか不安もありましたが、楽しい3年間を過ごさせていただきました。
部活には中学時代同様入っていなかったのですが、2年の2学期に英語部を作るから入るようにと言われ、「え~?今更部活?」と思いましたが結局入りました。役割を決める際に、1年生の女子から「雑用係は一番歳を食った人ね!」と名誉ある役職に任命されました。部活外でもデートや毎日1~2時間の電話の話し相手などの雑用を命じられ忙しかったです。
2020年10月10日
幼稚園〜中学校
自宅近くの幼稚園は寺付属と教会付属の2つで、私は寺付属の幼稚園に通っていました。園長は無表情で陰気な坊さんで何を考えているのかわからないような人でした。裏手はこれもまた陰気な墓地で鬼ごっこをしていました。遊具は少なく、正直言って楽しかったとは思いません。担任は厳しい中年女性で、若くて美人で優しかった保健室の先生の方がよかったな、などと思っていました。日本の仏教は陰気臭いと思うようになったのはこの頃で、仏壇とか線香は今でも嫌いです。
もう一つの教会付属の幼稚園には違う遊具があり、日曜日に遊びに行くことがありました。ある日、中年女性に腕をつかまれ嫌々しながらも拉致されて日曜学校に連れ込まれ、恐怖体験をしました。ここでアーメンと言えとか、来週も来いとか言われ、半年間は怖くて近寄れませんでした。半年ほどしてまた遊びに行ったところまたもや拉致され、キリスト教は徹底的に拒絶反応を示すようになりました。大学はキリスト教系だったのですが・・・その意味では選択を失敗しました。
普通の幼稚園に通いたかったです。
小学校時代
小学校はわりと楽しかったです。3年生でクラス替えがあり、卒業まで同じクラス、担任も4年から卒業まで同じ中年男性でした。その担任は真面目な顔をしていましたが、成人してからのクラス会で、え?実はこんなずっこけた性格の人だったのだ!思いました。
小学校で困ったことは給食でした。私は鶏肉を絶対に口にできないのですが、担任は残すことを認めてくれませんでした。鶏肉が出る日はいつも5時間目が終わるまで片付けさせてもらえず、持久戦となりました。これって完全に虐待です。
当時は正座などの体罰も普通にありました。ある日1人の女子が複数の男子にいじめられたことがあり、私は犯人の一人に間違えられたことがあります。翌朝うさぎ跳びで校庭10周を命じられ、抗議したのですが認められず・・・1日校庭でふてくされて寝ていました。冤罪は怖いです。
中学校時代
中学では2年生の頃は最悪でした。1~2年と同じ熱血漢ぶった全体主義者の中年男性が担任だったのですが、相性が悪すぎました。2年の1学期始業式後のHRで「またお前か」と言われ、それはこっちのセリフだと思いました。3年で担任が理解ある人に変わり、ほっとしました。アメリカへの旅行資金を貯めるためのバイトを黙認してくれたのもありがたかったです。
中学時代に困ったことは制服(その学校では標準服という名称)でした。詰襟が首を絞める感じなのが嫌いで、なんとか式以外では着ていませんでした。ワイシャツ、セーター、スラックスは指定のものは見につけていましたが。小学校時代に困った給食に関しては、残してもよかったので助かりました。
部活は帰宅部でしたが、夏場だけ活動する水泳部には入っていました。この学校の水泳部には顧問がいなかったので自由でした。今なら事故のことなどを考え顧問がいないことなどありえないこと思います。部員も数人だったので1コースを1人で独占できる状態でした。大会には参加しない部活だったこともよかったです。2年の時に、釣り部を作ろうと思い10人以上同志を集めましたが却下されました。都内の高校生たちの釣り同好会に入り、日曜日にはよく出かけていました。