雑記

思いつくままの雑記です
チェンマイに関すること以外にも、タイや他の国々のこと、想い出等々を思いつくままに綴っていきます。

初めて行ってみたいと思った国(2020年10月4日)

チマチョゴリ

カテゴリー:韓国
時期:小学生

場所:韓国、アメリカ





初めて行ってみたいと思った国は韓国です(実際に初めて行った国はアメリカです)。小学生の頃、家に子供用の百科事典があり、世界の民族衣装というページがありました。チマチョゴリ姿のお姉さんのイラストがとても気に入りよく見ていました。ある日母親に韓国に行ってみいと言ったところ、「韓国は怖い国だし、料理は辛くて食べられない」と言われました。怖い国というのは意味がわかりませんでしたが、恐らく日本統治のせいで反日感情が強かったでしょうし、朝鮮戦争のイメージもあったのかと思います。料理が辛いというのは魅力的で、いつか食べてみたいと思いました。

ますます韓国に興味を持ったのは、18歳の時に1年間滞在していたロサンゼルスでのことです。通っていた学校が韓国人経営で、学食の日替わりランチは韓国料理か韓国風和食でハマりました。面白くてお人好しの韓国人のクラスメートがクラスのムードメーカーの人気者で、私が落ち込んでいる時に気遣ってくれるのも彼でした。彼を落としたのは日本人のお姉さんでした。事務の優しくて可愛い韓国人のお姉さんは最年少だった私を弟みたいなものだと言って可愛がってくれました。他の学生とは違う扱いで、今日は韓国のお菓子があるから放課後事務室に遊びにおいでとか、子供扱いされていたような・・・。弟・・・私はあなたに憧れていたのですが?住んでいた地区は韓国人街ではなかったのですが、アパートから一番近いスーパーが韓国系の大きなお店でキムチの種類が多く、いろいろ試していました。

初めて韓国を訪れたのはそれから7年後、大学で韓国考古学の講義(専攻学科とは無関係です)を受講していたので、遺跡や博物館巡りをするのが目的でした。ソウルオリンピックの4年前でまだ地球の歩き方の韓国版もない時代でした。回りからは石をぶつけられるからやめておけなどと口々に言われましたが、結果は・・・不快な思いなど1度もなく行く先々でとても親切にしていただき韓国の大ファンになりました。2週間ほどかけてソウル、扶余、公州、慶州、釜山と回りました。慶州では普門湖畔で宿泊したのですが、ホテルに着いて窓から湖と山並みを眺めた瞬間に不思議な感覚に捕らわれました。妙に懐かしく、涙が込み上げてくるような感覚です。翌年だったか、韓国観光公社のテレビCMで「初めてなのに懐かしい」というキャッチフレーズがありましたが、まさにそれでした。

ソウルでは博物館の自動券売機が故障してチケットもお金も出て来なかったのですが、小学生の男の子を連れたお母さんが優しい笑顔でニコニコして身振り手振りで入口まで私を連れて行き、係に事情を説明して中に入れていただきました。宿泊していたホテルではチェックアウト前々日にフロントスタッフの方に大学はどこかと聞かれ答えたところ、彼の大学の恩師が私と同じ大学だったということでした。翌日その先生が「後輩が来たらほってはおけない」と来てくださり、まだ行っていない所を車で案内してくださりました。「君たちの世代には日韓の懸け橋になってほしい」との言葉が忘れられません。

扶余では博物館への道に迷い、軍の施設の入口で博物館かと聞いたところ、自動小銃を持った兵士が連れて行ってくださりました。公州の長距離バスターミナルではチケット売り場のお姉さんが私をバス(韓国語表記のみ)まで連れて行き乗せてくださりました。そのバスの車内では隣に座った韓国人のおじさんと話が弾み(英語)、韓国のタバコをいただき、日本のタバコでお返しをしました。車内には禁煙の表示があったのですが、当時は運転手さんもタバコを吸いながら運転していました。釜山のタバコ屋のお婆さんは、韓国語がわからないのに一人であちこち回ってよく釜山までたどり着いたとねぎらってくださいました。

その後10回以上韓国を訪れ、あちこちで親切にしていただきました。その中で特に記憶に残っているのは大邱のホテルです。安宿(旅館)に泊まっていたのですが、ある日近くの大きなホテルのレストランで食事をしました。他にお客さんはおらず、ウェイトレスさんに日本語の勉強をしているので練習相手をしてくださいと言われました。大邱に日本人が来ることはまれだそうで、長時間話をしました。文通を申し込まれ、2度目に大邱を訪れそのホテルに泊まったときはそれはもういたり尽くせりで・・・。宿泊料も半額にしていただき、レストランでの食事は無料、彼女が休みの日には近郊の山で登山をしましたが、お弁当もホテルのレストランが持たせてくださいました、お祭りがあった夜はホテルのスタッフさん大勢と繰り出し、私が食べてみたいと言っていたサムギョプサルのお店で、プロ野球の韓国シリーズで大邱のチームを応援して盛り上がり、などなど歓迎してくださりました。

洛山では束草からのバスで隣に座った男子大学生と旅は道連れ、一緒に回りました。

忠武(現在は統営、豊臣の水軍を撃退した李舜臣将軍が祀られている街))ではパトカーに乗車しました。後にも先にもパトカー体験はこの時だけです。妻がクレジットカード入りの財布を落とし(祟りか!冗談を言っていました)、再発行のため紛失証明書をお願いするために旅館近くの交番(かなり大きめ)に行きました。交番に着いてすぐにヤクルトを出していただき驚きました。韓国語の会話集を指さして事情を説明しようとしたのですが、忠武の本署から日本語を話す若い警官が来て落とした可能性のある場所をパトカーで回りました。証明書だけでよかったのですが。翌日は晋州へ異動の日で、忠武郊外にあるバスターミナルまでパトカーで送ってくださいました。

何度もお世話になった韓国には足を向けて寝ることができません。サランヘヨー!

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鏡餅

2020年10月3日
古臭い家


古風などという聞こえのよい家ではなく、良くも悪くも日本的で単に古臭い陰鬱な家でした。先祖代々日本人というつまらない家で、小学校の頃は「両親共に日本人なんて損をした気がする」と親に文句を言っていました。来世などというものがあるのなら(無宗教なので信じていませんが)、次は台湾人の父親と韓国人の母親がいいです。

祖母はいつも和服で洋服は持っておらず、父親も出勤時こそスーツでしたが家では浴衣でした。父親の出勤時と帰宅時は一家総出で「いってらっしゃいませ」「お帰りなさいませ」←面倒だから一人で勝手に行ってくれが本音でした。母親は普段は洋服でしたが、時折和服のこともありました。幸い姉と私は洋服でよかったので助かりました。年中行事に関してもよくやっていた家だと思います。5月人形は不気味で嫌いでしたが、雛人形は姉が興味を示さなかったこともあり、私が並べていました。

床の間には掛け軸、決して信仰心の厚い家ではありませんでしたが、仏壇と神棚が同じ部屋にあって不気味でした。タイ人の妻も実家を訪れる時も怖がってその部屋には入りませんでした。子供の頃にいたずらをすると仏壇と神棚に向かって謝るように言われ・・・おかげで私は一切宗教など受け付けない人になりました。子供の頃は毎年初詣に連れていかれましたが、一度靖国神社へ行った際に白装束を見て私は懲りて行かなくなりました。

私はよく台所に入り母親が料理をするのを観察してふむふむと思っていましたが、祖母は「男子厨房に入らず」と怒り、私が反論し喧嘩になるのが常でした。姉は台所に入ることはなく、結婚直前にご飯すら炊けない、出汁も使わないというていたらくでした。母親は専業主婦で外で働いたことがなく、それが当然だと思っていました。父親曰く「女に働かせたら男の沽券に係わる」だそうです。母親から「13代さん」と呼ばれるのも嫌でした。←魔の13ですね、私は後のことは知りません。姉は琴やピアノなどを習わされていましたが、幸い出来の悪い私は放任されていました。

食べ物に関しても和食が中心でした。正月のおせちはすべて母親の手作りでしたが、私にとっては甘いものが多く、七草粥も不味くてつらい正月でした。十五夜の月見団子も作って月見をしていましたが・・・不味かったのは言わずもがなです。父親のボーナスが出る日は地獄のすき焼きと決まっていました。甘いだけでも嫌なのに生卵につけて食べないと怒られる←生卵を食べるとじんましんがでる私には完全な虐待です。カレーは時々作っていましたが、父親が辛い物は一切ダメだったのでいつも甘口カレーで私は不満でした。甘口カレーでも辛いと言って嫌がるこの父親はニンニクもダメだったので韓国料理など望むべくもなく、というか当時は韓国料理はまだ一般的ではなかったと思います。中華料理に関してはラーメンはありで、私にとっては楽しみでした。洋食といえばあの甘くてやわらかい日本独自のナポリタン・・・やめてくれーです。

そんな古臭い家に間違って生まれてしまった私ですが、家をした。


我らが山

2020年10月2日
ナゴルノ・カラバフ共和国

ナゴルノ・カラバフ共和国がこの数日アゼルバイジャンとアルメニアの戦闘で大変なことになっています。訪れたことがある国なので気がかりです。アルメニアもアゼルバイジャン(パスポートを切り替えてからの入国)もよかったのですが、紛争が早く収まることを願っています。

元々アゼルバイジャンの領土で隣国のアルメニア人が多い地域で、1992年に独立宣言しましたが、承認しているのはアルメニアのみです。アゼルバイジャンとの戦闘が激化し、廃墟と化した街もありました。アルメニア以外の国々はアゼルバイジャンの領土だとしていますが、アゼルバイジャンの主権は及んでいない国です。アルメニアから陸路で入国する以外に方法はありません。通貨もアルメニア・ドラムです。

2014年にアルメニアからバスでナゴルノ・カラバフに入り宿泊しましたが、入国後に首都ステパナケルトの外務省へ行きビザを申請すると言う不思議な国でした。アルメニアとの国境では入国の際はパスポートチェックのみで、出国の際はパスポートのビザと発行時に渡される外務省の書類が必要でした。

ナゴルノ・カラバフ人は懐こかったことが印象に残っています。外国人は珍しく、道を歩くだけで挨拶されまくり、一緒に記念写真も求められました。首都ステパナケルトの郊外にあるシューシの街中はアゼルバイジャンの攻撃で廃墟となった建物の残骸が多く残っていました。観光要素も少ない(情報も少ない)国で首都ステパナケルトの「我らが山」や近郊の廃墟が残るシューシくらいでしょうか。世界でしたから。

ステパナケルトの我らが山
ステパナケルトの我らが山

シューシの廃墟
シューシの廃墟

シューシの廃墟
シューシの廃墟

シューシのアルメニア教会シューシのアルメニア教会

シューシの街角シューシの街角

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