雑記
チェンマイに関すること以外にも、タイや他の国々のこと、想い出等々を思いつくままに綴っていきます。
古臭い家(2020年10月3日)
カテゴリー:生い立ち
時期:幼少時〜
場所:日本
古風などという聞こえのよい家ではなく、良くも悪くも日本的で単に古臭い陰鬱な家でした。先祖代々日本人というつまらない家で、小学校の頃は「両親共に日本人なんて損をした気がする」と親に文句を言っていました。来世などというものがあるのなら(無宗教なので信じていませんが)、次は台湾人の父親と韓国人の母親がいいです。
祖母はいつも和服で洋服は持っておらず、父親も出勤時こそスーツでしたが家では浴衣でした。父親の出勤時と帰宅時は一家総出で「いってらっしゃいませ」「お帰りなさいませ」←面倒だから一人で勝手に行ってくれが本音でした。母親は普段は洋服でしたが、時折和服のこともありました。幸い姉と私は洋服でよかったので助かりました。年中行事に関してもよくやっていた家だと思います。5月人形は不気味で嫌いでしたが、雛人形は姉が興味を示さなかったこともあり、私が並べていました。
床の間には掛け軸、決して信仰心の厚い家ではありませんでしたが、仏壇と神棚が同じ部屋にあって不気味でした。タイ人の妻も実家を訪れる時も怖がってその部屋には入りませんでした。子供の頃にいたずらをすると仏壇と神棚に向かって謝るように言われ・・・おかげで私は一切宗教など受け付けない人になりました。子供の頃は毎年初詣に連れていかれましたが、一度靖国神社へ行った際に白装束を見て私は懲りて行かなくなりました。
私はよく台所に入り母親が料理をするのを観察してふむふむと思っていましたが、祖母は「男子厨房に入らず」と怒り、私が反論し喧嘩になるのが常でした。姉は台所に入ることはなく、結婚直前にご飯すら炊けない、出汁も使わないというていたらくでした。母親は専業主婦で外で働いたことがなく、それが当然だと思っていました。父親曰く「女に働かせたら男の沽券に係わる」だそうです。母親から「13代さん」と呼ばれるのも嫌でした。←魔の13ですね、私は後のことは知りません。姉は琴やピアノなどを習わされていましたが、幸い出来の悪い私は放任されていました。
食べ物に関しても和食が中心でした。正月のおせちはすべて母親の手作りでしたが、私にとっては甘いものが多く、七草粥も不味くてつらい正月でした。十五夜の月見団子も作って月見をしていましたが・・・不味かったのは言わずもがなです。父親のボーナスが出る日は地獄のすき焼きと決まっていました。甘いだけでも嫌なのに生卵につけて食べないと怒られる←生卵を食べるとじんましんがでる私には完全な虐待です。カレーは時々作っていましたが、父親が辛い物は一切ダメだったのでいつも甘口カレーで私は不満でした。甘口カレーでも辛いと言って嫌がるこの父親はニンニクもダメだったので韓国料理など望むべくもなく、というか当時は韓国料理はまだ一般的ではなかったと思います。中華料理に関してはラーメンはありで、私にとっては楽しみでした。洋食といえばあの甘くてやわらかい日本独自のナポリタン・・・やめてくれーです。
そんな古臭い家に間違って生まれてしまった私ですが、家を出てから開放されました。
最近の雑記
2020年10月2日
ナゴルノ・カラバフ共和国
ナゴルノ・カラバフ共和国がこの数日アゼルバイジャンとアルメニアの戦闘で大変なことになっています。訪れたことがある国なので気がかりです。アルメニアもアゼルバイジャン(パスポートを切り替えてからの入国)もよかったのですが、紛争が早く収まることを願っています。
元々アゼルバイジャンの領土で隣国のアルメニア人が多い地域で、1992年に独立宣言しましたが、承認しているのはアルメニアのみです。アゼルバイジャンとの戦闘が激化し、廃墟と化した街もありました。アルメニア以外の国々はアゼルバイジャンの領土だとしていますが、アゼルバイジャンの主権は及んでいない国です。アルメニアから陸路で入国する以外に方法はありません。通貨もアルメニア・ドラムです。
2014年にアルメニアからバスでナゴルノ・カラバフに入り宿泊しましたが、入国後に首都ステパナケルトの外務省へ行きビザを申請すると言う不思議な国でした。アルメニアとの国境では入国の際はパスポートチェックのみで、出国の際はパスポートのビザと発行時に渡される外務省の書類が必要でした。
ナゴルノ・カラバフ人は懐こかったことが印象に残っています。外国人は珍しく、道を歩くだけで挨拶されまくり、一緒に記念写真も求められました。首都ステパナケルトの郊外にあるシューシの街中はアゼルバイジャンの攻撃で廃墟となった建物の残骸が多く残っていました。観光要素も少ない(情報も少ない)国で首都ステパナケルトの「我らが山」や近郊の廃墟が残るシューシくらいでしょうか。世界でしたから。
ステパナケルトの我らが山
シューシの廃墟
シューシの廃墟
シューシのアルメニア教会
シューシの街角
2020年10月1日
最も古い記憶
最も古い記憶は2歳になったばかりの頃、東京の姉の幼稚園での芋掘りが雨で中止になったことです。開始直前に雨がポツポツと少し降って来ただけで中止となり、納得がいかずに「芋掘り!芋掘り!」と言っていたのを覚えています。やはり食べ物の記憶でした。
次の記憶は2歳2か月で、父親の転勤で地方に引っ越した日のことです。母親と二人だけで先行して引っ越した日、私は新しい家に入る気がせずに庭でうろうろしていました。知らない家だというだけではなく、新築の家で木材の臭いが気になったことが大きかったです。何度も母親にせかされしぶしぶ家に入ったことを覚えています。「東京のおうちに帰る!」と何度も言っていたそうです。そこには2年4ヵ月住んでいました。
その後幼稚園に入園するまでの記憶はかなり残っていますが、食べ物の記憶が多いです。道でゴマの入ったせんべいの香りがし、家に帰って母親におねだりをしたら出て来たのはゴマの入っていないせんべいで・・・文句を言えずに黙って食べた記憶は鮮明です。近くにヤギと豚を買っている家があり、一人で遊びに行くといつもサツマイモの天ぷらをくれたことも覚えています。2~3歳児に一人で遊びに行かせていた母親に感謝です。さすがに1キロほど先の公園まで一人で遊びに行った際は、親が行方不明になったと大騒ぎをし、公園で見つかった時は母親に泣かれました。
初めて一人で買い物に行ったのも3歳の時でした。近所のおばさんが10円玉をくれたので近くのお菓子屋さんで5円のオレンジガムを1つ買いました、お釣りの5円を持っていたら母親に怒られると思い、隣のおばさんにあげたら報告が行き、やはり怒られました。もう一つ買えばよかったのですが、いつも姉と二人で1つずつ買っていたので、一人で2つ買うとそこからバレると心配したのです。その後東京に戻り、小学校時代までは買い食い厳禁を言い渡されていましたが、もちろん破っていました。駄菓子屋さんは夢のような世界でしたから。