雑記

思いつくままの雑記です
チェンマイに関すること以外にも、タイや他の国々のこと、想い出等々を思いつくままに綴っていきます。

初訪タイ(2020年10月6日)

リペ島

カテゴリー:タイ
時期:1986年

場所:タイ



1986年で、10日ほど滞在し後は香港へ移動しました。アメリカで1年通った英語学校の教頭がとても親切なタイ人だったのでずっとタイに興味があり、9年越しの実現でした。その後77県全県・宿泊した街は123カ所になりましたが、タイに住むようになってからは増えていません。

当時はバンコクさえ大きな田舎街の風情で、初の高層ビルのバイヨーク1を建設中でした。バンコクに着いて最初に食べたのが「ヌア・パット・ピック」(牛肉の生唐辛子炒め)でした。この料理にはまったのですが、出すお店が少ないのが残念です。タイ米も世の中にこんなに美味しい米があったのか!と感激し、もちろん買って帰りました。成田の植物検疫で「タイ米ですか~?美味しいんですか?」と言われ、出したはいいが戻せないと応援を呼んで大騒ぎになりました。「次は勘弁してください」と言われましたが、もちろん毎回持ち帰っていました。その後日本でもタイ米が売られるようになってからは持ち帰ることはなくなりましたが。

初訪タイ時にはチェンマイにも来たのですが、これで人生設計が変わりました。空港の案内所で安くて快適なホテルを訪ねたのですが、薦められたのが当時できて間もない某ホテルでした。予算オーバーなのでダメダメと言ったのですが、大幅値引きの誘惑に負けてたまにはいいかと宿泊することにしました。チェックインの際の係の女性が・・・人生を変えてくれました。とても可愛い方で明るく笑顔が素敵でまさに一目惚れでしたが、突然無表情になり「誰かを同伴された場合は通常料金になります」と言われました。「誰も同伴したりはしない」と伝えると元の笑顔に戻りました。毎日外から戻ると「一人で暇でしょう?おしゃべりでもして行ったら?」と毎日話すことができました。チェックアウトの際に文通を申し込もうと思っていたのですが・・・逆に申し込まれました。翌年彼女は省庁の幹部候補生で入庁しバンコク勤務になりました。毎年タイに会いに来るようになり、二人とも結婚も考えていたのですが、8年間交際して自然消滅しました。彼女は仕事を辞めたくはなく、親を残して日本には行けないと考えていたことと、仕事を辞めてタイに来る勇気がなかったことネックでした。彼女が付けてくれたタイ語名は今では本名になっています。タイへの移住計画も実現できました。結局チェンマイに移住することになりましたが、彼女は今はどうしているのか・・・婚期を逃させたようで気がかりです。

最近の雑記

飛行機

2020年10月5日
初海外

16歳の時に一人でアメリカに3ヵ月のつもりで行きましたが、1カ月半の滞在となりました。地球の歩き方もない時代でした。観光はどうでもよく、プチロングステイが目的でした。費用は出してやるからと言う親に頼るのが嫌で、中3からバイトをして費用を貯めました。中学の担任は黙認してくれましたが、高校の担任からは入学後間もなくバイトを辞めるよう強要されたので、退学届を丁重に進呈させていただきました。

パスポートと観光ビザを取得し両替を済ませてすぐに、当時はしりで一般への認知度はまだ低かった格安航空券を英字新聞の広告で見つけ、アパートの1室で営業している怪しげな旅行代理店で購入しました。アメリカ本土ならどこでもいいので明日の航空券をくださいと言って笑われ、結局1週間後のホノルル乗り継ぎロサンゼルス行きのチケットを購入しました。初めて乗った航空会社は今はなきタイのエアーサイアムでした。当時の紙ベースの航空券は出発時刻しか表示されていなかったので到着時間も知らず、ホノルル乗り継ぎだと気づいたのも出発前日でした。なんとも不親切な代理店でしたが、気にはしていませんでした。現地でアパートを探すつもりだったので、ホテル予約もなしで出発しました。親にも知らせずの家出でした(バレていて親が羽田に現れましたが)。

到着が後れ午後6時だったのでホテルで1泊し、翌日はアパート探しをしていい物件を見つけたのですが、観光ビザで滞在許可3ヵ月ではダメだと言われてしまいました。月極め格安ホテルがあるからそこに行ってごらんと紹介されました。1ヵ月60ドルとそのアパートより安く、3階建てでフロントなし(管理人室あり)、窓なし、エアコン・テレビ・冷蔵庫などはなし、バス・トイレが各階1つ、レストランなし、掃除は週1回でした。部屋にあったのは小さな洗面台、ベッド、壁際の小さなテーブルと椅子のみでした。古い建物で翌年には更地になっていましたが、航空券を買った旅行代理店とエアーサイアムも翌年潰れたのです。

映画館へよく行っていました。土地柄スペイン語字幕がつく映画館もありました。メキシコ料理初体験をしたのもこの時です。最初はコーン・トルティーヤやチリコンカルネの香りは口に合わなかったのですが、慣れると病みつきになりました。スペイン語を勉強しようと思ったのもこの時で、後に2度目の高校時代から大学時代にかけて勉強しましたが、結局ものにはなりませんでした。

帰りの航空券は1年オープンの予約なしで行ったので、1ヵ月経った頃に予約を入れようとしたのですが・・・4ヵ月先まで満席、滞在許可期間を超えてしまうという状況でした。エアーサイアムのオフィスのスタッフはタイ人でしたが、日本語を話す方でした。搭乗日指定なしでキャンセル待ちをして予約が入ったのが出発前日の夕方で、1ヵ月半で帰国することになりました。


チマチョゴリ
2020年10月4日
初めて行きたいと思った国

初めて行ってみたいと思った国は韓国です(実際に初めて行った国はアメリカです)。小学生の頃、家に子供用の百科事典があり、世界の民族衣装というページがありました。チマチョゴリ姿のお姉さんのイラストがとても気に入りよく見ていました。ある日母親に韓国に行ってみいと言ったところ、「韓国は怖い国だし、料理は辛くて食べられない」と言われました。怖い国というのは意味がわかりませんでしたが、恐らく日本統治のせいで反日感情が強かったでしょうし、朝鮮戦争のイメージもあったのかと思います。料理が辛いというのは魅力的で、いつか食べてみたいと思いました。

ますます韓国に興味を持ったのは、18歳の時に1年間滞在していたロサンゼルスでのことです。通っていた学校が韓国人経営で、学食の日替わりランチは韓国料理か韓国風和食でハマりました。面白くてお人好しの韓国人のクラスメートがクラスのムードメーカーの人気者で、私が落ち込んでいる時に気遣ってくれるのも彼でした。彼を落としたのは日本人のお姉さんでした。事務の優しくて可愛い韓国人のお姉さんは最年少だった私を弟みたいなものだと言って可愛がってくれました。他の学生とは違う扱いで、今日は韓国のお菓子があるから放課後事務室に遊びにおいでとか、子供扱いされていたような・・・。弟・・・私はあなたに憧れていたのですが?住んでいた地区は韓国人街ではなかったのですが、アパートから一番近いスーパーが韓国系の大きなお店でキムチの種類が多く、いろいろ試していました。

初めて韓国を訪れたのはそれから7年後、大学で韓国考古学の講義(専攻学科とは無関係です)を受講していたので、遺跡や博物館巡りをするのが目的でした。ソウルオリンピックの4年前でまだ地球の歩き方の韓国版もない時代でした。回りからは石をぶつけられるからやめておけなどと口々に言われましたが、結果は・・・不快な思いなど1度もなく行く先々でとても親切にしていただき韓国の大ファンになりました。2週間ほどかけてソウル、扶余、公州、慶州、釜山と回りました。慶州では普門湖畔で宿泊したのですが、ホテルに着いて窓から湖と山並みを眺めた瞬間に不思議な感覚に捕らわれました。妙に懐かしく、涙が込み上げてくるような感覚です。翌年だったか、韓国観光公社のテレビCMで「初めてなのに懐かしい」というキャッチフレーズがありましたが、まさにそれでした。

ソウルでは博物館の自動券売機が故障してチケットもお金も出て来なかったのですが、小学生の男の子を連れたお母さんが優しい笑顔でニコニコして身振り手振りで入口まで私を連れて行き、係に事情を説明して中に入れていただきました。宿泊していたホテルではチェックアウト前々日にフロントスタッフの方に大学はどこかと聞かれ答えたところ、彼の大学の恩師が私と同じ大学だったということでした。翌日その先生が「後輩が来たらほってはおけない」と来てくださり、まだ行っていない所を車で案内してくださりました。「君たちの世代には日韓の懸け橋になってほしい」との言葉が忘れられません。

扶余では博物館への道に迷い、軍の施設の入口で博物館かと聞いたところ、自動小銃を持った兵士が連れて行ってくださりました。公州の長距離バスターミナルではチケット売り場のお姉さんが私をバス(韓国語表記のみ)まで連れて行き乗せてくださりました。そのバスの車内では隣に座った韓国人のおじさんと話が弾み(英語)、韓国のタバコをいただき、日本のタバコでお返しをしました。車内には禁煙の表示があったのですが、当時は運転手さんもタバコを吸いながら運転していました。釜山のタバコ屋のお婆さんは、韓国語がわからないのに一人であちこち回ってよく釜山までたどり着いたとねぎらってくださいました。

その後10回以上韓国を訪れ、あちこちで親切にしていただきました。その中で特に記憶に残っているのは大邱のホテルです。安宿(旅館)に泊まっていたのですが、ある日近くの大きなホテルのレストランで食事をしました。他にお客さんはおらず、ウェイトレスさんに日本語の勉強をしているので練習相手をしてくださいと言われました。大邱に日本人が来ることはまれだそうで、長時間話をしました。文通を申し込まれ、2度目に大邱を訪れそのホテルに泊まったときはそれはもういたり尽くせりで・・・。宿泊料も半額にしていただき、レストランでの食事は無料、彼女が休みの日には近郊の山で登山をしましたが、お弁当もホテルのレストランが持たせてくださいました、お祭りがあった夜はホテルのスタッフさん大勢と繰り出し、私が食べてみたいと言っていたサムギョプサルのお店で、プロ野球の韓国シリーズで大邱のチームを応援して盛り上がり、などなど歓迎してくださりました。

洛山では束草からのバスで隣に座った男子大学生と旅は道連れ、一緒に回りました。

忠武(現在は統営、豊臣の水軍を撃退した李舜臣将軍が祀られている街))ではパトカーに乗車しました。後にも先にもパトカー体験はこの時だけです。妻がクレジットカード入りの財布を落とし(祟りか!冗談を言っていました)、再発行のため紛失証明書をお願いするために旅館近くの交番(かなり大きめ)に行きました。交番に着いてすぐにヤクルトを出していただき驚きました。韓国語の会話集を指さして事情を説明しようとしたのですが、忠武の本署から日本語を話す若い警官が来て落とした可能性のある場所をパトカーで回りました。証明書だけでよかったのですが。翌日は晋州へ異動の日で、忠武郊外にあるバスターミナルまでパトカーで送ってくださいました。

何度もお世話になった韓国には足を向けて寝ることができません。サランヘヨー!

雑記更新履歴一覧、カテゴリー

 雑記カテゴリー

 映画メニュー

 その他のメニュー

 レストラン・インデックス

 中食

 湯めぐり台湾!のメニュー




Design by Megapx
Template by s-hoshino.com

Copyright(C) cnx-aroi.net All Rights Reserved